什 物

本尊正観世音菩薩像

観世音菩薩に関しては「華厳経入法界品」や「観無量寿経」などの経典にも説かれているが、特に「法華経普門品」の記述は「観音経」としてよく知られています。

これによると、観世音菩薩は、どのうような場所にも様々な形で現れ(応現身)、人々をすべての厄災や困難から救護する仏である。その救済の仕方が三十三応現身として説かれたのである。しかし一方、浄土系の経典では、阿弥陀仏の脇侍として、勢至菩薩とともに衆生救済に当たると説かれています。

このように、説かれている経典の性格によって多少その内容を異にし、更にその姿や形についても一定していない。我国においても、観世音菩薩が説かれている経典の伝来と共に、いろいろな観世音菩薩像が製作されてきたが、この像が具体的な尊容を整えるようになったのは、入唐僧(主に奈良時代から平安時代にかけて中国へ留学した僧侶)が帰朝し、我国に新しい真言密教系の諸経典や儀軌類が将来され、その信仰と造像が積極的に行われるようになってからのことです。

一般に観世音菩薩という場合には、この正観世音菩薩を指すことが多い。密教でいう十一面・千手・如意輪・馬頭などのような変化観世音菩薩と区別するために、本来の変化しない観世音菩薩に聖(正)の字をつけて呼ぶようになった。特に密教において、この尊像は、阿弥陀如来の因位の菩薩(お経では観音さまが一生懸命修行して阿弥陀さまになると説かれているので、観音さまを因位-原因-の菩薩と言う)であり、慈悲に満ちた普眼(正しくあらゆるものを見る眼)をとおして、世の中のすべてのでき事を執われなく自在に観る徳を持っている。その普眼の働きは、菩提心が慈悲の光となって輝きだそうとするもので、この姿をとらえたのが、聖(正)観世音菩薩の特徴ともいえます。

弘誓寺開山海信法印自作の観世音像は、天正19年(1591)の火災で惜しくも焼失してしまったが、その後、平成16年の観音堂竣工にあわせて造仏されました。

不動明王像

不動明王像

俗に"お不動さん"と親しみをこめて呼ばれているこの仏さまは、真言宗系寺院に多く見ることができる。その姿は一見すると、火焔を背負って勇壮であり、目は大きく見開き、口を厳しくゆがめて、両手には剣と索を握りしめた恐ろしい形相をしている。右手の剣は我々の煩悩を打ち砕く剣であり、左手の索は、私達の心の中にはびこる悪魔を制止するためのひもである。このお不動さんは、観音さまやお地蔵さまと同じように、路傍の片隅で、戓は名も無いささやかなお堂の中で、常に私達にほほえみかけ、宗派を超えて広く民衆に親しまれている。観音さまやお地蔵さまが、すでに仏となる資格を具えていながら、その誓願によって衆生と共に苦しみの輪廻の世界に留り、苦楽を共にして衆生を救済しておられるのに対して、仏が自らの分身として、私達に遣わされた使者がお不動さまであります。

悟りを求めている人々はどのような時代でも沢山いるはずです。その中でも、すぐれた人は仏陀の体験した法を追体験することによって、解脱するでしょう。或は、菩薩と苦楽を共にすることによって悟りに至るかも知れない。

しかしそのような人たちにくらべて、尊い菩薩の教えにも耳をかさず、悪行を重ねては悟りから遠ざかってゆく人の沢山いるのも事実である。このような人々のためにも、仏は偉大なる大慈大悲を働かせ、自らが迷える衆生を救済するために、姿を変えていろいろな明王として現れるのである。やさしい姿では耳をかさない人々をも救済しようと念じて、お不動さまのように忿怒の姿をしているのです。

弘誓寺の不動明王像は、現在は本尊の脇侍として安置されているが、本来は弘誓寺客殿の本尊であります。数度の火災に遭遇しながらも奇跡的に残っりました。木造寄木造で鎌倉時代初期の作と鑑定されていますが、御丈二尺余の尊像は、幾度も火の中をくぐりぬけ、そのために左手は焼失し、左目も火炎にて焼け爛れ、半眼の姿でしたが、平成7年修繕を施し現在の姿になっております。

毘沙門天(多門天)像

毘沙門天(多門天)像

「四天王」という毘沙門さまを思い浮かべる人がいるだろう。それほど毘沙門さまは民衆の中に広く溶けこんで信仰されている。別名多聞天とも言われ、帝釈天(神様の中心的存在)の軍臣として、須弥山(多くの神々が住む聖なる山)の中腹に住み、北方を守護する尊であった。このように始めは護国護法の神として尊崇されたが、密教の中に位置付けられてからは、福徳財富の神として弁財天と並び人気の高い尊となったのである。

弘誓寺の毘沙門天は、台座を含めわずかに御丈三寸という極小の鉄仏である。旧弘誓寺跡地の田より掘り出された胎内仏であります。

御神木

御神木

白山宮の御神木で、表に墨字で「日天本地観世音菩薩月天当所鎮守白山権現」と記されていて、神仏習合思想が明確によみとれる。裏の銘文は墨字が薄れて判読が困難だが「此の御身躰は7月3日、地形を引く時分に土底より掘出するものなり、時に延宝五暦丁巳7月23日建立するものなり、越後国魚沼群田河村弘誓寺賢能」と読める。延宝5年(1677)に天正の災禍によって焼失した跡地を整備していた際に、土中より掘り出した御神体を以て御神木として建立されたものであろう。近世初期の弘誓寺の様相がうかがい知れる貴重な銘文であります。

常法談林免許状

常法談林免許状

「談林」とは真言宗の所化が地方において一定の期間、諸々の勉学をする学問道場(初等~高等教育)です。僧侶を目指す者は談林の修了証を以って一人前の僧侶となります。更に一寺の住職資格を得るには、定められた年数以上本山への留学(大学教育)を必要とした。僧侶資格を認定できる談林の性格上、その教授者である住職は学識豊富な人でなければならなかった。

弘誓寺は、尊清法印以後、代々学識経験豊富な住職が輩出しました。そこで快真 法印代の享保15年(1730)10月に「常法談林所」の許可願いを、新義真言宗の触頭江戸四箇寺(円福寺・真福寺・弥勒寺・根生院)へ提出した。当時魚沼郡の本寺各寺院は与川村宝珠院・藤原村法音寺・塩沢村泉盛寺・小千谷村五智院・長崎村大福寺・浦佐村普光寺・田川村弘誓寺の七箇寺でありました。その内、当寺常時談林の免許を持つのは、中世以来継承されてきた五智院のみでした。常法談林の再興を願う弘誓寺は、2ヶ月後の12月25日、新義真言宗の両本山(智積院・長谷寺小池坊)能化により談林免許を受けました。さらに翌2月5日江戸四箇寺の一つ根生院役所において披露を受け、寺社奉行下の行政上の免許を得ました。これによって学問道場としての弘誓寺が誕生したのであります。

乗勒・鐙

乗勒・鐙

伝承によると、湯之谷村宇津野の佐藤氏の祖庄兵衛等四名は建久4年(1193)源頼朝の富士の巻狩りに勢子として参加し、功労を以って庄兵衛に乗馬を賜わったとあります。この鞁と鐙は代々佐藤家の家宝として伝わったが、分家半左エ門家を経て池田喜八家に移った。その後喜八家に不幸が続き、その災いを除かんと弘誓寺へ寄進されたものといわれています。保存は良好で、華美な形態を現在に残しています。

菊紋付煙草盆・菊金紋付挾箱

菊紋付煙草盆・菊金紋付挾箱

嵯峨御所大覚寺の院室戒蔵院の名跡を兼帯した時に、嵯峨御所より拝領した品であります。煙草盆は大覚寺宮の愛用の品といわれます。他に絵符・挑灯・挟箱・幕も同時に拝領しているが、絵符・挑灯は焼失して現在はありません。